100805 実家で夏の暑い午前中に書いたメモ

エキソニモは「モノ⇄プログラム⇄イメージ」のつながりのコミュニケーションを破壊し,一時のコードもなかったことにしてしまう.しかもそれを,モノ,プログラム,イメージの各部分で行っている.そしてその3つがバラバラになっても,バラバラのまま別のコミュニケーションが始まることを示している.

3つがバラバラになっても,データは流れ続ける.

《祈》ではマウスを重ね合わされるカーソルはどちらのマウスの分身なのであろうか.見た目にはわからない.《断末魔ウス》では,カーソルはマウスの分身である.

エキソニモは現実と仮想をズラし続ける.現実の中に仮想があって,その仮想のなかに現実が生まれ,新しく生まれた現実に再び仮想が生まれる.現実と仮想はそれぞれがそれぞれに対してコピペされていく.切り貼りが「コピペ」としてボタン一つで簡単にできるようになったように,現実と仮想は次々に切り貼りされていく.エキソニモは現実と仮想とのコピペを行う際に,ひとつの基準点としてカーソルを用いる.

PC環境と映像.映像は,かつてあったものやいまあるものを写し取ったものである.それは同じ現実世界を写し取ったものである.PC環境は現実とは異なる世界を写し取っている環境である.そこでは映像が二重化することがある.今までの現実世界の写し取った映像が仮想空間で映される.それはプログラムという一次元的な言語によってコントロールされている.平面で展開されているので,すべてが見渡せるように感じられるが,そこでは今までの映像のようにはすべてを見ることができない.見通しの悪い世界なのだ.だからこそ基準点としてカーソルが必要となってくる.

《断末魔ウス》でカーソルは画面上をワープし,ループし続けている.普段は,上にもって行ったカーソルが下からでてくることはない.でも,ここでは上から下へのワープをユーザーは受け入れ,カーソルが画面上を動き続けるループを見続けることになる.この構造は,マウスへの破壊から,マウスによる祈りへとつながる.《祈》では,重ね合わされたマウスによって,カーソルが動く.2個のマウスだけで,カーソルを動かす.そして,カーソルは《断末魔ウス》と同じ様に画面上をループし続けている.カーソルはカクカクとした動きは,《断末魔ウス》も《祈》も同じであるが,そのカーソルに対する私たちの気持ちはまったく異なっている.ひとつはやがて動きが止まることがわかっている,もうひとつは永遠に動き続ける.それは物理的な法則の中でのマウスの状況に決めることである.カーソルというイメージは,マウスから得られるデータに基づいて画面上にマッピングされて,ひとつの位置を示す.

マウスはヒトの行為に密接に関わっていると同時に,コンピュータにも密接に関わっている.だから,こちらの行為は正常なのに,カーソルの動きがカクるとコンピュータの調子が悪いのではないかと不安になる.カーソルは現実と仮想との結び目であると同時に,プログラムを少し変えることですぐに裂け目ともなる基準点なのだ.

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