100802 実家へと向かうバスの中で書いたメモ

藤幡正樹の《未成熟なシンボル》における平面への問いは,村上隆が提唱した「スーパーフラット」と関係しているのであろうか.

村上隆の「スーパーフラット」は2000年に行われた展覧会で大々的に提唱された.それに対して,藤幡の《未成熟なシンボル》は2006年の作品である.また藤幡の作品の平面性を考えるために取り上げた作品はいずれも2000年前のものである(《禁断の果実》は1991年,《Beyond Pages》は1996年).作品の発表年だけをみれば,藤幡の作品のスーパーフラットとはずれている.

しかし,スーパーフラットはGUIの不可思議な平面をはじめとするコンピュータに影響されていることは確かなことである.コンピュータはまさに藤幡が探求してきた世界である.また,藤幡はそのアーティストとしてのキャリアをアニメーションからスタートさせていることからも,藤幡とスーパーフラットとのあいだは時期のずれほど大きな隔たりはないと思われる.しかし,村上のスーパーフラットがそのまま藤幡の平面を説明できるかというとそれは難しいと言わざるを得ない.藤幡は,すべてを平面で語るためにはコンピュータを知りすぎている.藤幡はコンピュータの深層を知りすぎているのである.

スーパーフラットに影響を与えたGUIは私たちに「at interface value」というすべては表面の出来事であるという価値観を与えた.村上とともにスーパーフラットを推し進めた東浩紀は,GUIがすべてが見えているイメージの効果であるという大きな認識論的転換を起こしたものであるだとしている.

藤幡はすべてが見えるイメージの効果にすぎないになる前から,コンピュータに深く関わっている.それゆえに,その表面に密着するかたちで「行為と出来事の地図」が存在することを知っているのである.さらに,その地図が描く世界はまっさらな論理空間であることも知っている.その論理空間では3次元のオブジェを文字で記述することできるも知っている.藤幡は,GUIが表示している「不可思議さ」がなぜ生まれるのかを知っているのである.

その「不可思議さ」をそのまま立体にしようとしたのが《禁断の果実》であり,GUIの表面で起こっている記号とモノとの振幅運動を表したのが《Beyond Pagae》である.《未成熟なシンボル》は,モノとのイメージとを平面で重ねることで,私たちがなぜか受け入れてしまう「コンピュータの不思議な自然さ」を表している.

建築におけるスーパーフラットを書いた五十嵐太郎は,2010年のいまこの概念を再考した際に,石上純也の「テーブル」を「まさにスーパーフラット」だとしている.この作品は,とても薄い天板をもつとても大きなテーブルというだけなのだが,天板が本当にただの平面,スーパーフラットにみえるのである.五十嵐は石上の作品のことを「表層のインターフェイスとそれを支える深層の構造」と評している.もともと建築は立体であるがゆえに,スーパーフラットではありえない.そこをどうにかしようと建築家はアイデアを重ねてきた.それは,藤幡の作品における立体と平面との行き来に似ているのである.村上のアートにおけるスーパーフラットよりも,五十嵐の建築におけるスーパーフラットの方が,藤幡の平面性の問題と親和性があると思われる.

そして,石上純也は構造よりも表層のインターフェイスのみを自然として受け入れてもらいたいということを書いている.これは《未成熟なシンボル》における藤幡が平面のモノとイメージとの重なりに見出した感覚に近いと考えられる.なぜなら,藤幡はコンピュータを使ってくることで見えてくる構造を,コンピュータを使うことなく,テーブルの表面に実現したのであるが,それはコンピュータの構造を自然な現象として提示することであったと言えるからだ.インタラクティブが当たり前になったいま,私たちはもはやインタラクティブに驚くことはない.逆に,藤幡の作品がインタラクティブでないことに驚く.ここでは藤幡の作品を含めメディアアートはインタラクティブであること,ひいては,コンピュータはインタラクティブであることが内面化されているのだ.コンピュータが提示する環境が自然となったとも言える.そんな環境を藤幡はさらにひっくり返す.私たちはイメージをモノのように扱うようになっているのなら,それをそのまま見せてしまおうと.コンピュータがGUIで作り出した不可思議な平面をコンピュータを使わずに表現してしまうこと.私たちはますます表面的,スーパーフラットな世界に進んでいるように見えるけれど,実は,そこはフラットどころか,立体でもない,ただのまっさらな論理空間であり,なんでも可能な場所なのだということを,藤幡はモノとイメージとの重なりで見せる.それは自然としての論理空間を提示するということでもある.石上は構造は見てもらわなくてもいいと言っていた.藤幡も構造は見せない.いや,ここでは構造自体がインターフェイスの平面になっているのである.

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