カーソルについての深夜のメモ

カーソルは,スケッチパッドのときからあった.GUIでいきなりあらわれたわけではなく,コンピュータが登場した最初のころからあった.もともとあったから,GUIの特徴としてあげられない.意識にのぼらない.しかし,カーソルはマウスとセットになることで,ディスプレイという平面上を自由に動くことが可能になった.この自由さゆえに,カーソルとマウスはヒトの手の代わりとなる.

コンピュータから考えれば,カーソルはもともと自由に動くイメージであった.しかし,ヒトがそれを自由に動かすためのモノがなかった.だから,不自由な動きしかできなかった.ヒトの,モノの側が不完全であった.そこにマウスが開発された.カーソルはマウスというモノを得ることによって,もともとの自由さをヒトに与えることができるようになった.それでもまだカーソルにとっては不自由なのかもしれない.なぜなら,カーソルは点から点への離散的な移動ができるにも関わらず,ヒトにあわせて点から点を結ぶ線を移動しているからである.カーソルには距離という概念はない.だから,点を指す「↑」の形でいいのだ.

ヒトの注意を引くために.ペンの先を示すために.ペンの先という道具の先としてあるカーソル.ペンだろうが,マウスだろうが,道具の先にあるカーソル.ペンやマウスを手と同一化してしまうとすると,カーソルというイメージも身体というモノと同一化するのか.イメージとモノとが同一化する.イメージとモノとが重なる.イメージの性質とモノの性質が重なる.

このブログの人気の投稿

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

Surfin' に見たふたつのデスクトップ───永田康祐《Sierra》と山形一生《Desktop》

《ゴット・イズ・デット》が示すインターネットの「不穏さ」

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

授業ノート:ポストインターネット時代の芸術作品_ネット公開用

[インターネット アート これから]の「これから」を考えるためのメモ_03

儚いソーシャル麻婆豆腐

MASSAGE連載10_谷口暁彦《夜だけど日食》と《透明感》@「超・いま・ここ」/ ディスプレイを軸に畳み込まれ、重なり合う複数の空間

「ソーシャル麻婆豆腐」がつくるそこにある「空白」

インターフェイス再考:アラン・ケイ「イメージを操作してシンボルを作る」は何を意味するのか.