「かたちなき身体」


iPadをミキサーにかけて粉々にしてしまうだけの映像.モノを壊すだけの映像.ここには破壊行為しかない.iPadというモノが壊れて,そこにあったデータも一緒に失われる.ここには救いも何もない.破壊されたiPadにはもう何も映らない.起動すらしない.

エキソニモの《断末魔ウス》では,マウスは壊されるがデータは残る.残ったデータは,カーソルとしてディスプレイに表示される.ここにもモノの破壊行為はもちろんある.しかし,データはその破壊行為から逃れる.もちろん,マウスという位置情報入力デバイスが破壊されただけであって,コンピュータそのものは壊されていないのだから,うえのiPadとは異なるとはいえる.iPadは入出力デバイスとCPUなどがひとつに物理的にまとめられているので,その破壊はすべてを失うことを意味するが,マウスは,物理的にはコンピュータから比較的独立しているので,その破壊によって私たちは入力デバイスを失うだけである.

断末魔をあげることさえ許されずに粉々にされるiPadと,断末魔の叫びを記録されるマウス.コンピュータの側から考えると,頭を打ち抜かれて即死のiPadと,手を失う叫びをあげるカーソルとマウスとを中心に据えた今までのかたちのコンピュータとでも言えるだろうか.コードによってつながっているマウスから送られてくるデータで,そのプロセスを克明に記録していくコンピュータ.自分の身体でこれをやれと言われたら,気絶してまいそうな,早く楽にしてくれと叫びそうな拷問ではないだろうか.でも,コンピュータはそれができる.克明にマウスからのデータを記録し,いつでもそれを再生可能にすることができる.コンピュータは,壊されていくマウスに「死なない」ことを与えられる.

データも何も残すこと暇なく破壊されるiPadは,ヒトの今の身体に近いのではないだろうか.破壊,死んでしまえば動かぬモノとなってしまう.死してもデータをどこかに残していくマウスは,ライフログなどでデジタルデータを残していく未来の身体の在り方なのかもしれない.死なない存在としてデータを残していくこと.モノとしての身体でなくなっても,データとしていつでもどこでも再生可能で,もしかしたら何かと新たに組み合わせ可能な存在となること.

これは自分の身体を,今あるモノとして意識すると同時に,これからもモノではないかたち:データとしてあり続けることを意識することかもしれない.上の映像のiPadのように,たとえミキサーの中で粉々に砕け散ろうとも,かたちなきデータとして存在し続けるということ.こう仮定してみよう:コンピュータはヒトに「かたちなき身体」を与えようとしているのだ,と.そうすると,エキソニモの《断末魔ウス》は,破壊されるマウスとディスプレイに映りづけるカーソルによって,コンピュータによって可能になった「かたちなき身体」というヒトのもうひとつの在り方を端的に示していると考えられるのだ.

これもちょっとした気休めでの「死なない」ことにすぎないのかもしれない.マウスからのデータを保存していたコンピュータが物理的に破壊されてしまえば,データもなくなることは,粉々になったiPadが示している.でもそれでもいいのではないだろうか.一時だけでも今までとは異なったかたちになること.その可能性が開かれるだけでもいいのではないだろうか.モノから決定的には逃れられないけれど,ほんのちょっとだけモノから離れることができて,今までのヒトのかたちから解放されるだけでいいのではないだろうか.新たな可能性が開かれれば,そこからまた新しい世界を切り開くような芽がでてくるのだから.

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