カーソル「→」を意識する



デザイナーの佐野研二郎さんのホームページ:http://www.mr-design.jp/

最初は文字が小さいな,見にくいなと思うのだけれど.カーソルが「→」ではなくて「虫眼鏡」になっていることから,クリックしてみると.文字がというか,ページ全体が拡大される.ここで面白いのは,カーソル「→」も拡大されるところ.「→」が大きくなった瞬間に,今まで気にも留めていなかった「→」に注意がいく.たぶんこれは,このページに来たすべての人が体験することだと思う.

大きくなったカーソルは微妙に動かしづらい.それは,「→」を動かすと,ページも一緒に動くから.iPhone の慣性スクロールのような感じ.カーソルである対象(図)を動かすのではなくて,カーソル自体が図で,図と共に地が動くからなんか変な感じがする.カーソルとそれが指差す対象を含めた背景との関係が,いつもとは少し異なるようにデザインされている.

上の画像は佐野さんのホームページを見ているところをキャプチャーしたものだけれど,なぜかいつものカーソル「→」が消えないので,大きな「→」と小さな「→」とが共存している.小さな→の動きに導かれて,大きな→が動く.これはこれで変な感じがする.

いつものカーソル「→」もプログラムで表示されているものなら,大きな「→」もまたプログラムで表示されている.大きさの変化だけでなく,背景との関係もいつもとは異なるようにプログラムされている大きな「→」.

今まで「→」のことを書いてきたけれど,今日 iPad を触ってきた.もちろん iPad には「→」はない.iPhone にもないから,コンピュータと言われるものに接続された,もしくは付属するディスプレイにカーソル「→」がなくても別にもう何も思わないようになってきている.iPad は画面が広いから,使いながらカーソルのことを考えるかなと今ふと思って,はじめた触っていたときどうだったかと考えると,まったく「→」のことを考えていなかった.

iPad などのタッチ型インターフェイスが増えてきて,それが一般化していくと.カーソル「→」は忘れ去れていくのだろうか.「→」と密接に結びついたマウスもどうなっていくのだろうか.しかし,そんな狭間のときだからこそ,佐野研二郎さんのホームページのようにカーソル「→」を意識させるデザインが生まれるのかもしれない.一般化していて意識にのぼらなかったカーソル「→」が,それを衰退させるかもしれないタッチ・インターフェイスによって,逆説的に意識されるような「時」なのかもしれない.

マッキントッシュが発売されてから、26年.この間に一般化して,コンピュータというと「ディスプレイ」「キーバード」「マウス」という形をしたものであったものが,「ディスプレイ」だけになろうとしている.そして,「ディスプレイ」に映るイメージも多くは変わらないが,カーソル「→」だけが消えていく(のかもしれない).

カーソル「→」の「ある|なし」の「あいだ」を体験しているヒト.これは貴重な体験なのかもしれない.写真,映画のはじまりと同じような体験.少し違う.カーソル「→」がこのまま消えていくとしたら,これからのコンピュータの長い歴史の中で,タッチへの「つなぎ」としてこの30年の間だけコンピュータのディスプレイ上に表示された例外的な存在なのかもしれない.しかし,この例外的な存在が,コンピュータを一般化したとも言える.未来のことはわからないが,一万年先,カーソル「→」はディスプレイ上に残っているのであろうか.残っているとしたら,ヒトが発明したとても面白いイメージであるし,残っていないとしたら,それはそれで,なぜカーソル「→」がコンピュータが一般化してく30年間だけ存在したのかの意味を考えたくもある.

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