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3月, 2010の投稿を表示しています

スケッチパッドで描く、ふたつの手(2)

スケッチパッドで描く、ふたつの手(1)
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3.ヒトというノイズの多い装置
ウィーナーのサイバネティクスやシャノンの情報理論という時代背景の中,「ヒトはノイズの多い,周波数帯の狭い装置だと見なせる14」と考えた人物がいる,J・C・R・リックライダーである.リックライダーの専門は音響心理学であったが,自らを被験者にした行動調査の結果,研究活動時間の多くが考えるための「準備」に費やされているという事実に驚き,この問題を解決するためにはコンピュータという知的な助手との「対話」を実現することが必要だと考えるようになる.そして,リックライダーはコンピュータとヒトの思考の構造をそれぞれ生かせる協力態勢を構築することが,もっとも大切なのではないかということに思い当たり,1960年に「ヒトとコンピュータとの共生」という論文を発表する15.「共生」とは,「密接な関係の中で,あるいは結合に近い状態で,二つの生物がともに生きる」という意味であり,リックライダーはヒトとコンピュータが共生関係を築くことで,新たな情報処理の方法の可能性が開かれるという考えを示した.その際に,彼は,ヒトのことを並行して活動できる経路をもつが「ノイズの多い,周波数帯の狭い装置」とし,コンピュータを同時に数種の基本的動作しか行えないが「きわめて高速で正確に」情報を処理する装置あると対比させた上で,このふたつの異質な装置を結びつけ対話をさせるには,グラフィック・ディスプレイを用いることが必要不可欠だという考えを持っていた16.リックライダーは,1962年に,ARPA の情報処理技術部(IPTO)の部長となり,自らの考えを実現させるために,ディスプレイを用いた対話型コンピューティングの研究への援助を行っていった.その援助の中から生み出された模範解答とも言うべきシステムが,サザーランドのスケッチパッドであった.リックライダーは,対話型グラフィック・コンピューティングに関する最初の公式会議に,当時まだ大学院生だったサザーランドを招き,スケッチパッドについての発表を行う機会を与え,周囲の人たちに対話型コンピューティングの可能性の大きさを示した17.
サザーランドのスケッチパッドによって,リックライダーは,ヒトというノイズの多い装置をコンピュータというノイズの少ない装置に接続するために新しい方法を提示することで,自らの考えの正し…

スケッチパッドで描く、ふたつの手(1)

1.記録映像に映るふたつの手 ひとつの動画ファイルがある.そのファイルを再生すると,1962年の夏に撮影されたアイヴァン・サザーランドが開発したシステム「スケッチパッド」の映像が,グラフィカル・ユーザ・インターフェイスの基礎を築いたアラン・ケイによる説明とともに映し出される.そこでは黒い画面に白い線が,ペンで描かれていく.ケイが紹介していることからも,このスケッチパッドが,コンピュータの歴史の中で大きな影響力を持っていることが伺えるが,実は,このシステムに実際に触れた人はごく限られている.アラン・ブラックウェルとケリー・ローデンは,サザーランドの博士論文の電子版の前文で,スケッチパッドは,マサチューセッツ工科大学(MIT)のリンカーン研究所でカスタマイズされたマシン,TX-2 でしか動かなかったので,その影響力は,論文と使用状況を撮影したこの記録映像によって広まったと書いている1.

その記録映像には,ディスプレイ横にあるボタンを押す手とディスプレイにライトペンと呼ばれるペンで線を描いていく手が映っている.また,これらふたつの手がまったく映っていないときに,白い線が規則的に動くということも記録されている.描く手を必要とせずに線が動いているのであるが,その線の動きには摩擦や空気抵抗が感じられない.そして,この摩擦や抵抗のなさは,ライトペンで線を描いている際にも同様にみることができる.今から,40年以上も前に撮影され,サザーランドのアイディアを多くの人に伝え,スケッチパッドを「個人によって書かれた最も影響力のあるコンピュータ・プログラム2」という地位にまで押し上げたこの映像は,何を示しているのであろうか.
私は,以前,スケッチパッドが「変換」という原理でイメージを生み出す装置であることを示した3.それは「痕跡」との一致という原理を逃れたイメージを描けるということである.この映像で,手が全く映し出されていないときに線が規則的に動くという,ある意味,マジックとも言えるようなシーンは,そのことを示している.このマジックは,後にケイが「最初のコンピュータ・グラフィックス・プログラムだということばかりでなく,スケッチパッドにはすばらしい面がたくさんあった.単に何かを描くための道具でなく,常に正しい法則に従って描くプログラムだったね.スケッチパッドで正方形を描こうと思ったら,まずライトペ…

「ゴット」の前ではヒトは無力

エキソニモ《ゴットは、存在する。》 《gotexists.com》http://gotexists.com/
URL をクリックすると「510 Got Exists: The requested Got was found on this sever.. / Sever at gotexists.com Port80」と表示される.このページからしてやられたなと思う.ウェブページが見つからなかったときのエラーメッセージ「404 not found」を模していて,「ゴットが存在する」こと自体があたかもエラーのように表示される.ゴットの存在を形式では否定し,内容では肯定する.
「510 Got Exists」のあとは,クックパッドやYouTubeなどで「ゴット」を検索した結果が次々と表示される.実際には「ゴット」ではなくて,「ゴッド」「神」「God」という単語なのだが,それらが「ゴット」に変換されている(と思う).次々と表示される「ゴット」の検索結果を見ていると,「ゴット」が存在するかのように感じられてくる. それは証明することが出来ない「ゴッド」と同じようなレベルで,そこに,ディスプレイ上に,もしくはデータの流れの中に存在するかのようである.私たちが見ているディスプレイでは,「神」が「ゴット」に変換されて,普段はあまり気にもとめなかったところに「神」が存在していたことに気づかされる.「神」「God」「ゴット」は「ゴット」になることで,その存在が際立つ.そして,私たちがこれらの語を,特に「神」という語をネット上で当たり前のように使っていることに気づかされる.またこの変換で面白いのは,意味としての「神」ではなく,データの流れの中に現れる「神」「God」「ゴッド」を「ゴット」に変換しているので,クックパッドという料理レシピを集めたサイトの中にも「ゴット」が存在していることである.
私たちは,ディスプレイ上の「ゴット」を見ることしかできない.なぜなら,カーソルが消えてしまっているからだ.「ゴット」が表示されているウィンドウにカーソルを持っていくと,カーソルが消える.だから,リンクをクリックできない.「ゴット」の検索結果から先にはいけない.何もできない.ただ見るだけである.「ゴット」の起こした奇跡のように,というのは言いすぎだが,目の前に現れては消える「ゴット」をただただ見…

イメージを介して,モノが「祈る」

エキソニモ《ゴットは、存在する。》
《祈》

手を合わせるように,2つのマウスが重ねられていて,Google で「祈り」を画像検索した結果が表示されているディスプレイ上をカーソルが震えるように動いている.マウスという「モノ」が祈るという行為を行っていると,私が認識してしまったこと.それは2つのマウスが手を合わせるように重ねられているということもあるのだけれど,ディスプレイ上のカーソルの動きを見たときに,何かを切実に「祈る」という行為がここでは確実に行われていると思ってしまったのだ.ディスプレイ上のカーソルの動きによって,マウスの重ね合わせの形により確かな意味が与えられた.「祈る」という人間に特有な行為と考えられているものが,マウスというモノとカーソルというイメージとの組合せによって行われている.そして,それを「祈り」だと考えて作品にするエキソニモというアーティストが存在し,それを見てまさに「祈り」だと考える私や,その他の多くの人がいるということ.チューリングテストではないけれど,ここでは人間の行為が,私たちにとって当たり前の存在となったコンピュータ,それを使うためのマウスとカーソルによって行われている.「祈る」行為にもはや人間もコンピュータもないのだと考えた.イメージを介して,モノが「祈る」ことができるのだ.
東京都現代美術館のサイバーアーツジャパンでも,エキソニモは《祈》の別バーションを展示していた.ここでは,マウスではなくキーボードのスペースキーの上にアルスエレクトロニカのゴールデン・ニカ像が置かれている.ディスプレイ上は,Google 日本語入力によって「かみ」が,スペースキーに像が置かれているために,延々と変換されている.Google が私たちのキー入力からのデータから算出した「かみ」の変換は,私たちの意思でもあるけれど,それをまとめているのは大きなデータの流れをまとめる Google であり,その変換を延々と繰り返すしているのは,ここではゴールデン・ニカ像というモノである.私たちは変換のためのデータを提供し続けているが,この作品の中では人間は必要ではない.Google というデータをとりまとめ,それをイメージとしてディスプレイに提示する存在と,キーボードのスペースキーに圧力を加えるモノさえあればいいのである.ここでも,データの流れの中で生じるイメージを介し…

イメージという触角|カフカ「変身」|運動能力

ある朝,不安な夢から目を覚ますと,グレーゴル・ザムザは,自分がベッドのなかで馬鹿でかい虫に変わっているのに気がついた.甲羅みたいに固い背中をして,あおむけに寝ている.頭をちょっともちあげてみると,アーチ状に段々になった,ドームのような茶色の腹が見える.その腹のてっぺんには毛布が,ずり落ちそうになりながら,なんとかひっかかっている.図体のわりにはみじめなほど細い,たくさんの脚が,目の前でむなしくわなわなと揺れている.(p.32)「変身」in『変身/掟の前で 他2編』カフカ,丘沢静也訳  ヒトはコンピュータと言うモノを生み出して,グレーゴル・ザムザのように境遇に置かれているのではないだろうかという気がしている.今までの身体の形から,別の形へ.別の形になるということは,新しい行為をすることになり,認識も変わっていく.
最初は,下半身からベッドを抜けだそうと思った.だがその下半身は,まだ見たこともなく,どんなふうになっているのか想像もつかないが,あまりにも動かしにくい.動きがじつにのろい.とうとう腹立ちまぎれに,力いっぱい,がむしゃらにからだを前に突きだしてみたら,方向をまちがえて,ベッドの柱脚の下のほうに激しくぶつけてしまった.焼けるような痛みを感じた.この下半身こそ,さしあたり自分のからだで一番敏感なところかもしれないと学習した.(p.39) 私たちは,コンピュータと組み合わさった自分の全体を見通すことがまだできていない.コミュニケーションの仕方云々よりも,自分たちの身体をしっかりを見ることが大切なのではないだろうか.
自分の現在の運動能力がまったく分かっていない,ということを考えず,それどころか,自分の演説がもしかしたら,いや,おそらく理解されなかったのではないか,ということすら考えずに,もたれかかっていたドアから離れ,開いているドアを通って,マネージャーのところへ行こうとした.マネージャーはもう家の前の踊り場の手すりをおかしな格好でつかんでいる.だがグレーゴルは,からだを支えるものがなくなったので,あっと小さく叫びながら,すぐに倒れ,たくさんの細い脚で着地した.その瞬間,この朝はじめて,からだが楽だと感じた.たくさんの細い脚で,しっかり床に立っている.うれしいことに,脚は完全に思いのままに動く.それどころか,グレーゴルの行きたいところへ,運んでくれようとさえする…

「心」に近い部分で私たちに働きかけるカーソル

Google Chrome の「速い、楽しい。」と題された動画.ここで面白いと思ったのは,Chrome のアイコンも含めてディスプレイ上でブラウザに関係するイメージがすべて木というモノとなっているところ.カーソルも粘土のようなモノで作られている.いつも見ているディスプレイ上のイメージがモノとなって,本物の机の上(デスクトップ)展開されている.そして,アイコンはボタンになっており,ここではクリックするということが,カーソルがボタンを押すことになっている.アイコンはボタン,クリックは押すこととよく結びつけられているけれど,それをそのままストレートにモノで表現しているところが興味深い.
確かにコミカルで面白い動画であるが,なぜわざわざイメージをモノで置き換える必要があったのか.また,「速い、楽しい。」というタイトルを持つこの動画で,実際に「速い」のはブラウザではなくカーソルである.カーソルが速く動こうがブラウザの性能とは全く関係がないではないか.ブラウザの速さを見せるのなら,下の動画の方がそれを上手く表している.時間を圧縮することで,より速さを強調している.時間が圧縮されているため,カーソルも速く動いている.

でも,この動画は味気ない,楽しくない.「楽しい」ということを考えれば,最初の動画の方がそれを伝えている.ここで問題としたいのは,その際に「楽しい」を表しているのが,カーソルということである.この動画上でアイコンやウィンドウ,タブもモノ化しているが,それらの動きはディスプレイ上のイメージを模したものであるに対して,カーソルはイモムシのように動けば,アイコン向かってダイブし,木のウィンドウ上を縦横無尽に動き回り,タブの上でジャンプする.いつもは画面上でいつも左上を指しているだけの←が,これでもかというくらいに好き勝手に動き回っているのだ.
私たちはマウスなどを使って,カーソルを自由に動かす.裏返せば,カーソルは,いつも私たちに動かされている.カーソルは私たちの手の延長して機能しているのではないのか.とすれば,「動かされている」という表現はおかしいかもしれない.手の延長であっても,カーソルは「手」ではなくて,手で持たれたハンマーなどの「道具」に近い,と私は考える.マウスなどが「道具」であって,カーソルはモノとしての実感がないので「道具」と言い難いかもしれない,やはり「道具」だ…

「非-用具的道具」?

A Demonstration of the Transition from Ready-to-Hand to Unready-to-Hand Dobromir G. Dotov, Lin Nie, Anthony Chemero を読んでみた.この論文についての解説は,「コンピューターと自分は一体」:実験で検証 で読めますが引用してみる. Chemero氏の研究成果は,3月9日(米国時間)付でオープンアクセス誌『PLoS ONE』に掲載された.この実験は,ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの基本概念の1つを検証する目的で行なわれた.

人間は,扱い慣れた,正しく機能している道具については特別に意識せず,道具の向こうを「透かし見る」ようにして,目の前の課題に意識を向けるものだ,とハイデッガーは唱えた.それはちょうど,靴ひもを結ぶのにいちいち自分の指を意識しないのと同じ理屈だ.すなわち,道具はわれわれ自身なのだと.

この概念,「用具的」[他には「道具的」「手許的(性)」「用存的」など.英語では「ready-to-hand」=手の届くところにあること.ドイツ語では「zuhanden」]と呼ばれ,人工知能や認知科学の研究に影響を及ぼしてきたが,これまでこの概念が直接検証されたことはなかった. ということらしい.検証されたかどうかは別にして,自分の関心のあるところを少し書いてみることにしたい.ハイデガーは道具の例としてハンマーというモノを出しているのだけれど,この論文ではマウスとカーソルとでひとつの「道具」を作って実験している.論文の著者たちは次のように,この「道具」のつながりを書いている. ハイデガーの例とアナロジーを示すと,マウスはハンマーの柄の役割をし,スクリーン上のポインターはハンマーの打撃面と同じような役割をする.[To make an analogy to Heidegger’s example, here the mouse plays the role of the handle and the on- screen pointer figure plays a role similar to that of the hammer striking face.] このアナロジーは妥当なんだろうか.マウスがハンマーの柄であることはいいとしても,カーソルがその打撃面と…

デスクトップ・メタファーと「ディスプレイ行為」 

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ここで,デスクトップ・メタファーが生み出されたパロアルト研究所に考察の対象を移したい.なぜなら,この研究所において,ディスプレイ上の対象物を指さすための道具であったマウスに,次々に新たな行為が付け加えられることになるからである.
パロアルト研究所では,1973年に,アルト(図4-4)と呼ばれるシステムが開発された.アルトは,アラン・ケイや,バトラー・ランプソン,チャールズ・サッカーが中心となって開発された実験的なワークステーションであり,その大きな特徴は,ディスプレイ上のピクセルがメインメモリのビットに対応するビットマップ方式を採用していたことである.この決定は,ヒトが環境の情報を最も捉えることができる視覚を重視したインターフェイスを提供することが,マシンとソフトウェアの最大の目的であるという開発者たちの認識から導かれたものであった.そして,アルトのインターフェイスでもうひとつ重要なことは,ポインティング・デバイスとして,マウスが採用されたことである.当時,マウスは,入力デバイスとしては馴染みの薄いものであったが,スチュワート・カードによる実験によって,マウスが,ディスプレイ上の対象を指示するのに最も適したデバイスということになり,標準装備されることになった.4-42) 視覚重視の考えと,ヒトの手の原初的な感覚をコンピュータに持ち込むマウスという道具が,アルトというワークステーションで出会うことになる.

    図4-4 ゼロックス社 アルト
視覚重視のアルトは,ディスプレイ上のイメージを自由に表示することができた.このことは,ディスプレイ上のイメージが示すアフォーダンスの直接的な知覚に基づく指さし選択行為とマウスとの関係に影響を与えた.
エンゲルバートのシステムでは,マウス・カーソルのイメージは,単なる点であった.しかし,アルトでは,カーソルの形は,矢印(→)になる.カーソルの形が,矢印ではなく点であっても,ディスプレイ上のイメージを指さす選択行為を遂行することはできる.では,なぜ形が変わったのか.それは,ディスプレイ上のイメージを自由に表示できるようになっために,指さし選択行為の遂行に,より適したアフォーダンスを示すイメージを表示するようになったと考えることができる.
ここでは,身体的行為を導くアフォーダンスとディスプレイ上のイメージが導くアフォーダンスの間に変化が起こ…

マウスとカーソル:カーソルによる選択行為

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コンピュータのディスプレイで表現されている世界は,現実の世界ではないという単純な事実を考えなければならない.そこは,もともと,コンピュータが複雑な論理計算を瞬時に行って表示しているものにすぎない論理の世界であったはずである.そして,論理の世界は,ヒトの身体を排除しているものとして,レイコフとジョンソンが批判したものである.4-21) この事実は,コンピュータによって作り出されるディスプレイ世界には,元来,メタファーの基盤となるヒトの身体が存在していなかったことを示しているのではないか.
しかし,レイコフとジョンソン,楠見,久保田の説明では,コンピュータの論理の世界に,いつ,どのようにして,私たちの身体が入り込んでいったのかということは考えられていない.ここから,ヒトの身体が,コンピュータとのコミュニケーションに入り込んでいくプロセスを詳しくみていく必要がでてくる.そして,そこには論理の世界にメタファーが立ち上がっていく様を捉えるという興味深い問題がでてくるはずである.
メタファー形成の基盤となるイメージ・スキーマは,基本レベルの行為の繰り返しによって生じるものであるから,身体経験の基本レベルとコンピュータとの関係から考察していかなければならない.よって,私たちが,デスクトップ・メタファーについて,はじめに考えるべきことは,このメタファーが生み出される前に,ヒトの身体経験がその基本レベルで.コンピュータの論理世界に何らかのかたちで入り込んでいたのではないか,ということになる.この問題への手がかりを,シェリー・タークルは与えてくれる.彼女は,デスクトップ・メタファーを一般化したマッキントッシュのインターフェイスについて,次のように書いている. マッキントッシュのインターフェイス──実際はその画面──は,実物の机をシミュレートしている.私のアップルⅡの CP/M システム4-22) のような,論理的コマンドで操作される論理的インターフェイスではなく,たとえ二次元とはいえ,ヴァーチャル・リアリティだったのだ.この世界では,空間を進むのと同じように情報の中を進む.実際,マウスを手にして平面上で動かせば,その物理的な動きが,通常は矢印か指の形である指示アイコンによって,画面に反映されるのがわかるだろう.4-23) このタークルの記述には,「論理的コマンドで操作される論理的インターフェ…

メタファーと身体の関係

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1996年に,ダン・ゲントナーとヤコブ・ニールセンは,「アンチ-マック・インターフェイス」という論文を発表した.そこで,彼らは,現在でもGUI デザインを論じる際にバイブルとして参照されることが多い「マッキントッシュ・ヒューマン・インターフェイス・ガイドライン」の原理に,あえて反することで,新たなインターフェイスの可能性を論じている.4-3) マッキントッシュの第一の原理には,インターフェイスは私たちの馴染みの環境を用いたメタファーに基づいているべきだと書かれている.4-4) マッキントッシュの開発者たちは,この原理に則って,現在まで使用されている洗練されたデスクトップ・メタファー(図4-1)を開発した.
          図4-1 システム1.1 のデスクトップ
そこでは,ディスプレイ画面を「机の上(デスクトップ)」と見なし,「ファイル」,「フォルダ」,「ごみ箱」などを模したアイコンを,マウスで選択し,クリックすることで,コンピュータの操作が可能になっている.この原則に対して,ゲントナーとニールセンは,「ワードプロセッサ」は「タイプライター」にたとえられるが,ワードプロセッサには,タイプライターにはない「やり直し」の機能があるなど,メタファーが示す目標領域(コンピュータ)と基底領域(たとえる対象)とのミスマッチを指摘する.そして,彼らは,このようなメタファーの使用は混乱を招くことになるので,コンピュータ・システムの構造に即した,メタファーに頼らないインターフェイスをデザインすべきだと主張し,言語主体のインターフェイスの提案を行った.4-5)

メタファーによる対象の機能のミスマッチを問題視するゲントナーとニールセンに対して,ジョン・キャロルらは,以前から,対象間のミスマッチを含んではいるが,メタファーの使用は私たちの最も基本的な学習へのアプローチのひとつなので,インターフェイス・デザインには不可欠なものだと主張していた.4-6) 確かに,コンピュータを取り巻くメタファーには多くのミスマッチがあるが,それにも関わらず,私たちは,それらを手がかりにして,コンピュータを使い始めて,気がつくと,それらを当たり前のように操作して自分の作業を進めてきたことは事実である.

ゲントナーとニールセン,キャロルらは,似ている対象を結びつける言語の機能としてメタファーを論じたものに依拠してい…

見ているモノは触れているモノか? (5)

自分の英語論文を翻訳してみたが,最後はもう書き直しになってしまった.それがいいかどうかではなくて,そうなってしまった.こんがらがったスパゲッティになってしまった.これもいいかどうかではなく,そうなってしまった.

見ているモノは触れているモノか?(1) 見ているモノは触れているモノか?(2) 見ているモノは触れているモノか?(3) 見ているモノは触れているモノか?(4) -- 「イメージに触れる」という新しいスキル 私たちはマウスなどの物理的なモノに触れながら,ディスプレイ上のイメージに触れている.しかし,もちろんディスプレイ上には物質性を伴ったイメージは存在しない.物質性を伴わないモノを見るということもどういうことか怪しいが,それに触れるというのはもっと怪しい感覚である.本当に,イメージをモノとして見て,触れているのであろうか.その答えは,イエスでも,ノーでもある.ここでベイトソンが「スイッチ」について言及しているテキストを引用してみたい. われわれは日常,“スイッチ”という概念が,“石”とか“テーブル”とかいう概念とは次元を異にしていることに気づかないでいる.ちょっと考えてみれば解ることだが,電気回路の一部分としてスイッチは,オンの位置にある時には存在していない.回路の視点に立てば,スイッチとその前後の導線の間には何ら違いはない.スイッチはただの“導線の延長”にすぎない.また,オフの時にも,スイッチは回路の視点から見てやはり存在してはいない.それは二個の導体(これ自体スイッチがオンの時しか導体としては存在しないが)の間の単なる切れ目──無なるもの──にすぎない.
スイッチとは,切り換えの瞬間以外は存在しないものなのだ.“スイッチ”という概念は,時間に対し特別な関係を持つ.それは“物体”という概念よりも,“変化”という概念に関わるものである.(pp.147-148)改訂版 精神と自然:生きた世界の認識論,グレゴリー・ベイトソン ヒトとコンピュータがひとつの行為をなすために回路を作っているとすれば,ディスプレイ上のカーソルと私たちの手元にある物理的なマウスはひとつづきの導線と考えることができるのではないだろうか.その中で,カーソルは,身体というモノと画面上のイメージとをとり結ぶスイッチとして考えるべきではないだろうか.オンの状態,つまり,私たちがマウスを手元で操作しているとき,カーソ…

見ているモノは触れているモノか?(4)

見ているモノは触れているモノか?(1) 見ているモノは触れているモノか?(2) 見ているモノは触れているモノか?(3) -- 二重記述 カーソルの形が←から風車に変わっても,私たちの手元にあるマウスは変わらずに在り続ける.しかし,マウスを通してディスプレイ上でできる行為は異なっている.私たちは風車を動かすことはできずが,何も指さすことはできなくなる.ディスプレイ上に見えるイメージはときに私たちの意思に沿ってときに勝手に変わるが,マウスなどのポインティング・デバイスは何も変化しない.見えているイメージは変化するが,触れているモノは変化しない.このことを私たちはごく自然に受け入れ,行為を変化させる.ここでは見えているイメージの変化が触れているモノには影響を与えないが,行為を変更している.しかし,私たちは昔から見えているモノと触れているモノとの変化が一致していた世界に生きてきたはずである.ディスプレイ上のイメージであっても,マウスというモノを通じてそれに介入出来る以上,イメージの変化はモノに影響を与えているべきではないのだろうか. 二つ以上の異なった感覚器の集めるデータが組み合わされるときの二重記述のケースは,すべてこの一節に集約される.マクベスはまず,触覚でチェックすることによって,この短剣が幻影に過ぎないことを一応“証明”するが,それでもなお疑いは晴れない.彼の眼が,“他の感覚すべてを凌いでいる”かも知れないからだ.短剣に“血のしたたり”が現われてはじめてマクベスは“こんな剣があるものか”と断定するのである. (p.99) 改訂版 精神と自然:生きた世界の認識論,グレゴリー・ベイトソン ユーザ・インターフェイスにおける「あることとなすことの問題」,つまり「見ることと触れることの問題」を考える際に,ベイトソンが提示する「二重記述」という概念は有益である.私たちは視覚や触覚をそれぞれ別個に考えがちだが,それらは時間差で認識に大きく影響を与えるのである.今まで,ユーザ・インターフェイスの領域では「見る」ことが注意が集中していた. 例えば, What You See Is What You Get(あたなが見るモノはあなたが得るモノ)で重要なのは,ユーザが行ったことが適切に視覚化されることである. また,GUI を説明する概念として有名な「直接操作」を提唱したベン・シュナイダーマンは,興味…