カーソルとスイッチ

われわれは日常,”スイッチ”という概念が,”石”とか”テーブル”とかいう概念とは次元を異にしていることに気づかないでいる.ちょっと考えてみれば解ることだが,電気回路の一部分としてスイッチは,オンの位置にある時には存在していない.回路の視点に立てば,スイッチとその前後の導線の間には何ら違いはない.スイッチはただの”導線の延長”にすぎない.また,オフの時にも,スイッチは回路の視点から見てやはり存在してはいない.それは二個の導体(これ自体スイッチがオンの時しか導体としては存在しないが)の間の単なる切れ目──無なるもの──にすぎない.(p.147)
スイッチとは,切り換えの瞬間以外は存在しないものなのだ.”スイッチ”という概念は,時間に対し特別な関係を持つ.それは”物体”という概念よりも,”変化”という概念に関わるものである.(pp.147-148)

カーソルはベイトソンが言う意味での「スイッチ」なのではないか? カーソルは時に私たちの「手の延長」になり,時に私たちと切り離され,放置された←にすぎなくなる.カーソルが「あるけどなくて,ないけどある」ような曖昧な領域を私たちに示しているとすれば,その「曖昧さ」は「ある|なし」の切り替えという時間において,その変化の瞬間にしか「カーソル」が存在しないからではないのか? 私たちはそのカーソルが形成する曖昧さの領域の中で,新たな想像力を形成しているのではないか? 

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