「自己座標系」なんて投げ捨てたい

.review に書こうとしているカーソルに関しての考察について,須永剛司「インタラクションに関する考察:「自己座標系」をデザインすること」(『創造性の宇宙:創世記から情報空間へ』所収)を読んで,反射的に思ったことを書き連ねたもののまとめ.
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須永さんのカーソルの考え:「ユーザの視線を代理する記号」→「スクリーン上にある『自己の存在・場所』に近似するもの」→「ユーザがもっているであろう関心の場所を表示している」→「システム側が期待するユーザの思考の『存在・場所』でもある」

それゆえに「システム側とユーザ自身の関心の場所とがずれていることも多々ある」.この「ずれ」というのが気になる.カーソルは私たちの関心が向かう先を表していると同時に,私たちの関心はシステムによって導かれてもいると考えるとここに「ずれ」はない.

カーソルは,システム/ユーザの関係性から生じる関心の場所を常に指さすことで,システムとユーザの間に生じる「ずれ」を解消している.ユーザとシステムをそれぞれ単体で独立して考えるからそこに「ずれ」があると感じる.

須永さんは「カーソル=『体』の代理記号」と考えている.これに対して,カーソルは代理記号ではなく,「体」の別の在り方を示していると私は考えてみたい.

須永さんは「情報空間のインタラクションは,自己と表象である情報を結び付ける『自己座標系』が欠如しているのだ」と書くけれど,「自己座標系」なんて投げ捨てたい.情報空間に,物の空間と同じような形で「自己」を定位なんてしたくない.

http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8809409726

「自己座標系」「定位」とかいって「体」を独立した単体として考えるのではなくて,「しょせん座標データだ」くらいの存在の根拠のカーソルで,「体」を情報空間にとけ込ませたい.

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