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矢印の自立

The World's Biggest Signpost from adghost on Vimeo . ノキアのナビゲーションサービスのプロモーションのためにつくられた巨大な矢印.携帯から位置情報を送ると,矢印が動いてその方向を指すもの.情報を送った人は,矢印の先に何があるかも想像することができるので何を指しているかわかるけれども,多くの人は,そこに流れるメッセージを読んだとしてもこの矢印の先にあるモノを想像できないなのではないだろうか.でも,矢印の方向に私たちの注意は向いてしまう. 矢印の先に注意を向けるということを,私たちはごく自然に行っているが実はそれはつい最近になって生まれた行為らしい.矢印は,長い間,「モノの動く方向を示す」という意味しかもっていなかったが,今世紀に入って,矢印が示す意味が多様化してきてると,以下のように書かれている. 矢印の意味をほんの少し調べただけでも,現在の記号的な教えを示す矢印のなかから,たちどころに7種類もの違う意味で使われている矢印を見つけることができる. 1.動きの向き 物体の動きであったり,動かす必要がある物理的な動きの向きを示す. 2.物理的な変化,変容  ある状態や状況に置かれているところから別のものに変化,変容することを示す. 3.ディメンションの提示 通例としては距離を示したり,数量,重量,時間といったいろいろな寸法とともに使われる.距離を表したり,重量を示す. 4.連結関係を示す 例えば組み合わせにすべき部品と部品を示す矢印.この場合,昔の医学書や科学書で見られるものと同じく,結合線(破線)と同一の意味を持つ.この矢印は,現在使われている矢印と同じくさまざまな起源から生まれてきたことを示す. 5.注意を喚起 どこを見るべきか,図版の特定の場所を示すために使われる. 6.連続性を示す 現代の科学技術では,機能を使ったり,ある要素と要素を組み合わせるには,多くの手順を経る必要がある.そうした一連の手順において,矢印で次にするべき段階を示す. 7.特定の意味を持つ 矢印が教え示す意味は,必ずしもいつも明確とは限らない.また仮に明確でなくとも,意味は持っている.例えば「電気」や「リサイクル」に使われている記号がそれにあたる.(pp.19-20) 矢印の起源と多様化 in 矢印の力:その先にあるモ

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←← View more presentations from Masanori MIzuno . 講義で使ったスライドの改良版.まだまだ「カーソル」については考えないといけないところがいっぱいあります.ちょっとずつ改良しつつ,スライドの図についてテキストを書きながら,考えていきたい. 今のところのカーソルについてのひとつの考え. 骨髄反射を引き起こすモノのような情報を示す記号・映像の複合体に即応して骨髄反射的行為を行う身体との間を自由自在に様々な行き来するカーソル《←》.

カーソルについて何か考えたこと,または,エキソニモの《断末魔ウス》《ゴットは、存在する。》の感想

講義でカーソルについて話した.講義ではエキソニモさんの《断末魔ウス》,《ゴットは,存在する》の《gotexists.com》を見た.その講義への学生のコメント. -- カーソルよりも物理的に破壊されきづついているマウスの方が可哀想に思いました 《ゴットは存在する》を見てなんだか不思議な感じがした。ゴットについての検索結果がずらりと出ているにも関わらず、それらにカ-ソルを合わせて見ようとすると見られない。いつも当たり前に出来ている事が出来ないと言う事の不思議さが、とても新しく、面白いと思った。 なんだか無機物なのにカバーを外して中身がどんどん剥き出しになる過程が有機的で気持ち悪いと感じました パソコンの画面にカーソルがあるのは当たり前だったので、深く考えたことはありませんでした。断末魔ウスについては、マウスは無機質な物なのにあそこまで無惨に壊されると痛々しかったです。無意識の内に感情移入しているんでしょうか。 その発想を思いついた人がすごいと思いました。 マウスがたくさん壊されて、無機物といえどかわいそうでいたたまれない気持ちになりました。 自分も普段PCを触って、必ずと言っていいほど使っているマウスが壊れていくのは、なんだか非日常的ですさまじかったです。 シュールレアリスムとはこのことを言うのかと思い、すこしだけ切なくなりました。 カーソルはたまにどこにあるのかわからなかったり、押したいところでないところに教えてしまうことがある。 映像は面白かったが少し怖かった。何を表現したかったのかがあまり伝わってこなかった映像だった。 マウスは今ではほとんどが赤外線を使用しており、使用感もボール式よりもなめらかになってすごく良くなったと思う。 これからは指先の細かな動きで操作出来るマウスが出ると思う。 あの矢印をもっと可愛いデザインにしてほしい。 カーソルは、基本的に矢印と手の人差し指で表されていますが、未来のカーソルには、動物の手や人の顔などでも表示されるとおもしろそうだと思います。 いろんなアイコンにカスタムできるけど 結局シンプルかつわかりやすいので矢印が一番よいと思う カーソルをマウスで動かすのは、いつもちょっと難しいなぁと思います。 パソコンの画面のフィールドと実際のマウスを動かす机とは別物なので… Ma

ディスプレイ上をぶらぶらする←

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カーソルは記号でもあり,映像でもある.身体的なものであり,マウスやトラックパッドといったモノと結びついてもいる.言い換えれば,道具的.カーソルは,私たちに情報と行為を与える.図を同心円状に書いて,その中心にカーソルを置いてみたのがいけなかったのかもしれない.カーソルは1ヵ所に留まらない.あるときは記号であり,別のときは映像であり,手の延長であり,単なる道具としてありながら,私たちにさまざまな情報と行為を与える.中心に何かがあると思うことが間違っているのかもしれない.中心は空集合.何もないことを指し示すカーソル.何もないことを指し示すことで,記号/映像/身体/モノ/行為/情報と緩く結びつきながら,ディスプレイ上をぶらぶらする←.ディスプレイ上をぶらぶらしながら,形態を変化させるカーソル.カーソルが,私たちとは関係なしに,そのヴァージョンを変えていくこと.

.review へのワクワク感

近頃,いろいろと「カーソル」について考えていて,そのことをとりとめもなくこのブログに書いてきたのだけれど,こんどそれをちょっとまとめて,慶應大学SFC の西田亮介さんたちが立ち上げる .review に書いてみようとしている.Twitter で,西田さんが新雑誌を立ち上げると宣言したときは,自分が関わるとは思っていなかったのだけれど….以前だったら,こういったプロジェクトを横目に見ながら,「関係ないかな」と思っていたのだけど,今回は気がつくとアブストを書いていた.なんでだろう.現時点では,このプロジェクトがどうなっていくのかは,参加している人たちも,おそらく西田さんをはじめとする編集メンバーもわからないのではないだろうか.でも,みんなワクワクしていることは確かだと思う.このワクワクした気持ちで,新しい領域を切り開いていきたい. .REVIEW 編集ブログ http://dotreview2010.blogspot.com/ 編集チームの熱い意志が込められた宣言が読めます. アブストとプロフィールの公開をお願いしたので,私の情報もいずれ掲載されると思います.

様々なレイヤーをひょいっと飛び越えてしまうカーソル(←)

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この画像が好きです.カーソル(←)は,様々なレイヤーをひょいっと飛び越えてしまう.はやく,エキソニモの《↑》を見たいな. ネットワークの向こう側の空間.デスクトップに存在するカーソルと言う縄張り.モニターを見ている自分という座標.それら複数の時空が織りなす,レイヤー化された現代のアイデンティティ.そんな分断されつつ同時に成立する自己を撹乱するインターフェイスを制作します.その体験を経ることで,僕たちはゴットに一歩近づけるかもしれない. ――エキソニモ http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2010/Exploration_in_Possible_Spaces/Works/exonemo_j.html エキソニモ《↑》のページをキャプチャ:カーソル3つ (これを見ている人のカーソルもあわせると4つ!!!!) 関係ないけど,tumblr で流れてきたカーソル・ディスコ (Blogger は gif アニメ動かないみたいです)

カーソルによる「注意ー指示的結合 」

← は,私たちの注意をその先に向ける.上の動画は tumblr のページをキャプチャーしたものだけど,カーソルを「share on tumblr」の上にもっていくとそこから,← がツールバーの方へひゅっとのびていく.そうすることで,私たちの注意を促し,bookmarklet をツールバーに持っていく行為を喚起する. 注意ー指示的結合 ・・・注意というのは,それによってある時点での思考が別の時点での思考に結合され,関係づけられる力のことである.あるいは,記号としての思考という考えを応用すると注意とは,思考ー記号の純粋な指示的結合のことである,と推測される.(p. 189) パース著作集2 記号学 私たちの思考を←は方向づける.しかし,ひゅっとのびる緑色の←の前に,私たちはすでに黒い←を見ている.カーソルである.カーソルにも注意を向けている.でも,それは←の方向へ注意を向けているのではない.少なくとも,最初は.どういうことか.私たちはカーソルを最終的に注意を向ける先,アイコンなどに持っていくので,最終的にはカーソルの先に注意を向けることになる.しかし,カーソルを動かす前にはカーソルそのものに注意いっているから,もともと最後の目的地に注意がいっているかもしれない.どちらにしても,カーソルを動かし始めるために,マウスなりトラックパッドなりに手を伸ばすときには,カーソルの先に注意を向けているのではない.いや,向けているのかもしれない.これから始める指さし行為の始点としてのカーソルの先.始点と終点を結びつけその軌跡上にカーソルを動かすために.Twitter では,以下のように書いていた. カーソルは始点を指し示すとともに終点を指し示す.終点が始点になり終点になる.終点になり,ディスプレイ上のイメージが変化するとカーソルは何も指し示さないことになる.でも,僕たちにはそれに違和感を抱かない?そのとき,カーソルをどこかをまた指し示すための始点と思っているから? http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/7403120234 ディスプレイ上のどこかにある終点への軌跡を描くための始点をカーソルは常に示し続けている? カーソルが緩やかにディスプレイ上のイメージを結びつけていく? それゆえに私たちの注意を中継して,思考と思考,行為と行為とを結合

カーソルの「重さ」を考えるためのメモ

カーソルの軌跡の速さを変えると,カーソルが「軽く」なったり「重く」なったりするような感じがする.ディスプレイ上のひとつのイメージである矢印が速く動くと「軽く」感じ,遅く動くと「重く」感じる.でも,カーソルに「重さ」なんてあるのだろうか. 運動感覚のなかで力,重さの感覚には,運動中枢のだす運動指令の役割が重要であるといわれています.(p.39) より重く感じる時には,努力により,すなわち脳からの指令を増して筋をより強く興奮させようとするはずです.つまり,重さの感覚は筋を動かそうとする努力,すなわち脳が筋に送る遠心性の指令に依存していることを示唆しています.(pp.40-41) ものをつまむ時,触覚受容器はどの働くのでしょうか.ものをつまむ時,運動指令は対象の物理的特性すなわち,形,重さ,材質(表面の性質)によく適合したものでなければなりません.まず視覚的につまむものの存在を知ると,つまむ運動が企画されます.もし対象がすでになじみのあるものなら,過去の経験,記憶が生かされますが,接触後は,触覚受容器から送られてくる情報が運動をコントロールするわけです.(p.144) タッチ,岩村吉晃 カーソルの軌跡の速さを速くしようが遅くしようが,その時に触れているトラックパッドや,掴んでいるマウスといった物理的なモノ自体は変化しない.変化しているのは,カーソルが動く速さだけである.ここでは,モノとヒトとの接触後も,「触覚受容器から送られてくる情報が運動をコントロールするわけ」ではないことになる.触覚からの情報ではなく,視覚からの情報によって,脳の「筋を動かそうとする努力」が変化する.とすると,カーソルの「重さ」は視覚的に構成されていることになる. もう少しだけ考えてみよう.私たちはカーソルを動かしているときに,自分の手がどのように動いているかを知っている.それは,メルロ=ポンティが「一つの絶対知によって知ってしまっている」と呼ぶものである.軌跡の速さを変えることによって,カーソルの動きと絶対的に知っているこの手の動きとにズレが生じたときに,「重さ」を感じるのではないだろうか? 視覚だけでもなく,触覚だけでもなく,これらが重なり合うなかでのズレが「重さ」を感じさせるのではないだろうか? 以前書いたもの: 「一つの絶対知」としてのインタラクティブ体験

YCAM/DESKTOP という境界線,ズレを吸収する構造としてのレイヤー

映像は,YCAM で行われていた Semitra Exhibition "tFont/fTime" の会場風景を中継するサイトをキャプチャーしたもの.正確には,キャプチャーした映像を,さらにキャプチャーしたもの.なんでこんなややこしくなったかというと,ただ最初にキャプチャーした映像が Youtube にアップロードできなかっただけの話なんです…. 最初のページで気になるのが,YCAM/DESKTOP の境界線.DESKTOP 領域では見えているカーソルが,境界線を越えて YCAM に行ってしまうと,見えなくなる.見えなくなっても動かすことはできるので,境界線を越えて DESKTOP に帰ってくると,カーソルはまた見えるようになる.近頃,ウェブサイトでも広告やゲームなので,ある領域にカーソルが入ると非表示になるというのよくあるので,カーソルが消えること自体は新しくともなんでもないのだけれど,YCAM/DESKTOP という境界線の設定が興味深い.YCAM での展示風景というリアルな空間に行くとカーソルが消えて,デスクトップという仮想領域ではカーソルが見える.でも,私の実感ではデスクトップの方が現実的で,YCAM の方が仮想のような気もする.実際に体験していないという意味で.でも,もう現実/仮想という区分け自体がしっくりこないので,単に「遠い/近い」ということだけかもしれない.「遠く」に行けば,カーソルが見えなくなり,「近く」に来るとカーソルは見えるようになる.ただ,「遠い/近い」を行き来している間も,カーソルを動かしている自分の手は,確実に私の側にあり続ける.カーソルが「遠く」に行ったとしても,手はカーソルが見えているかのように,それが「近く」にあり続けるように動く.YCAM/DESKTOP という境界線の設定は,この境界線が設定されていなければ,別に感じることもないカーソルに対する感覚の捻れを私たちに与えてくれているような気がする.ヴィレム・フルッサーが言っていようなような「私の在り方」を決めることに,「YCAM/DESKTOP という境界線」は関わっているのではないだろうか? 相対的な空間の中で<ここ>を決めようとしている私の在り方に対して,私の身体は<ここ>ではなくて<原点>であろうとするために捻れが生じるのではないだろうか? 空

「カーソル」について考えてみるために(1)

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カーソルという記号的存在

指とカーソルが連動している.マウスとのカーソルとのつながりとも異なる感覚.なんかとても違和感がある.どこかにタッチしているようで,まったくどこにもタッチしていない.指がどこにも触れていない.これは多分,疲れると思う.何か触れたときは,触れた物質からの反作用が確実にあるのだけれど,このインターフェイスにはそれがないと思われるから.そして,もしないとすれば,自分の中で物質からの反作用を作らなければならない.そうすると,触れるというアクティブな面と,物質から反作用というパッシブな面の双方を自分の身体で行うことになる.それでは,ヒトはインターフェイスから自らの輪郭を描けないのではないだろうか? 輪郭は,日常に散りばめられた無数の要因の中から,その状況に適応した顕著な因子が瞬時に抽出され結実する.輪郭は外側から導き出される,ということである.手で壁に触れて壁というものを認識することは理解できても,同時に壁が己の手の形を認識させていることにはふつう気づかない.輪郭を見いだすのは易しくない.それははっきりとしたものではない.砂の中のヒラメが動くことで姿を現すように,輪郭は動きの中で「今」「ここ」という瞬間に現れ,結像する.(p.18) デザインの輪郭,深澤直人 ここで「輪郭」という言葉を出したけれども,このインターフェイスの「輪郭」は,タッチによって与えられるのではなくて,カーソルによって与えられると思う.iPhone などのタッチパネルを用いたデバイスにはカーソルがなくなっている.それは.直接ディスプレイ表面に触れるから,そこで私たちの行為の輪郭が,触れる指,触れられる面,そしてそれに伴うイメージの変化で構成される.ここには「触れるー触れられる」という関係と,それに伴うイメージの変化がある.「指と面」との接触が行為の輪郭を描きだし,それにイメージの変化が付随する(もしくは随伴する). だが,このインターフェイスには「触れるー触れられる」の関係がない.それゆえにこの関係を擬似的に作り出さなければならない.この擬似的接触関係を作り出すために必要なのがカーソルである.もちろん,カーソルはこのインターフェイスに限ったものではない.マウスとの組合せ,古くはライトペンとも組み合わされていた(→の形ではないが).それらすべてが擬似的接触関係を作り出すためのものだったといえる.直

ペンからマウスへ:ヒトとコンピュータとの共進化

スケッチパッドを開発した二年後の1965年に,サザーランドは「究極のディスプレイ」という論文を書いている.このテキストの後半部分は,ヴァーチャル・リアリティの登場を予言したものとして有名なのだが,前半部分には,コンピュータと向き合う際に必要とされるヒトの行為と当時の入力デバイスの状況が書かれている.2-45) サザーランドは,安価で,信頼性もあり,電送可能な信号を容易に発生させられることから,タイプライターのキーボードがコンピュータの入力の装置の基本となっていることを指摘する.2-46) さらに,キーボードがインターフェイスの基本となるにちがいないので,ユーザはタッチタイプを習得しなければならないという予言までしている.そして,その他の入力デバイスとして,スケッチパッドで用いたライトペンと,ランド社が開発したタブレットを挙げ,この二つのデバイスは,ディスプレイ上の対象を選択することと,コンピュータで何かを描くことを行うのにとても便利だと書いている.2-47) ここで,サザーランドは選択行為と描く行為を遂行するための道具としてライトペンとタブレットを挙げているのであるが,コンピュータのプログラムで一番必要とされるのは,ヒトがディスプレイのどこを指さしているのかを知ることであると指摘する.2-48) 描く行為が,ディスプレイ上の点を指さすという選択行為によって構成されていることを,サザーランドは認識していた.この認識を持ちながらも,サザーランドは,選択行為を描く行為で遂行するという方向でスケッチパッドを開発し,行為を遂行する形式に,「ペン」で「紙」に向かって描く行為を踏襲したものを採用した.スケッチパッドが描く行為の形式を採用していることに関して,ティエリー・バーディニは興味深い指摘をしている. スケッチパッドのスタイラスは,ユーザーの手と目を画面上の表示と結びつけた.ペンは,杖の先の目と画面上のペンという,両方の役目を果たしていたと言える.したがってこれは,電信技術からタイプライターまで,目で見たものから手でやることを切り離すように進んできた入出力技術の歴史の趨勢を逆転させるものだった.2-49) ここで注目したいのは,バーディニが,スケッチパッドでは,行為を遂行する面とイメージを表示する面が同一なのに対して,タイプライターではそれぞれが切り離されて別

スケッチパッド:行為=痕跡=イメージを解体する「変換」という操作

スケッチパッドは,1960年代に,マサチューセッツ工科大学のリンカーン研究所で行われていた研究プロジェクト “Computer-Aided Design” の集大成的なプログラムとして,1963年にアイヴァン・サザーランドが作り出したものである.スケッチパッドのシステムは,TX-2コンピュータ,CRT ディスプレイ,ライトペン,押しボタン,コントロール・ノブから構成され,ライトペンを用いて,ディスプレイ上に,幾何学図形を何度でも正確に描くことができた.サザーランドは,「この装置は,従来の視覚的表現にはまったくみることができないコンセプトを実現しており,その一つとして『拘束』がある」 2-24) と書いている. 「拘束」とは,プログラムを構成する変数の自由度を制限してしまうことであるが,スケッチパッドでは,この概念は,ユーザが予めこれから描くイメージを,コンピュータに対して宣言することで,描くものの自由度を制限するというかたちで現れる.描くものの自由度を制限するというマイナスのイメージがつきまとう「拘束」を,サザーランドは,なぜ,新しいコンセプトだとするのか.その理由を示すために,スケッチパッドで,直線を描く手順を具体的にみていきたい.スケッチパッドで直線を描くとすると,ユーザは,まず「直線」のボタンを押さなければならない.その後,ディスプレイ上に,ライトペンを使って直線を描くのであるが,その際に,描く行為の軌跡が真っ直ぐである必要はない.なぜなら,直線を描くためには始点と終点さえ決まればいいからである.つまり,コンピュータに予め「直線」を描くことを示しているので,ヒトの描く行為の軌跡がたとえ曲がっていたとしても,コンピュータは,その軌跡から始点と終点を抽出して,それらを結ぶ直線を表示するのである.確かにこの「拘束」は,現在のグラフィクス・ソフトウェアでも使われており,私たちがディスプレイに「直線」や「円」を表示させるのに大いに役立っている.それゆえに,サザーランドが「拘束」を,描くことの自由度を制限するにもかかわらず新しい表現と呼んでいることは理解できる. しかし,この「拘束」という概念は,ただ便利なものとして考えてしまっていいのであろうか.「拘束」を実装したスケッチパッドは,前もって知らされていた情報に基づいて,ヒトによって遂行された描く行為とは必ずしも

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

フロイトは,自らの記憶と知覚のメカニズムに関する仮説のために,当時,売り出されていた玩具である,マジック・メモという装置を取りあげた.その理由は,この装置のイメージを表示する表面が,「いつでも新たな受け入れ能力を提供すると同時に,記録したメモの持続的な痕跡を維持するという二つの能力を備えている」2-11) からであった.フロイトは,「情報を無限に受け入れる能力と,持続的な痕跡の保存は,互いに排除しあう特性」2-12) と考えていたが,マジック・メモは,その相反する能力を同時に実現する装置であり,その構造は,次のように記されている. このマジック・メモは,暗褐色の合成樹脂あるいはワックスのボードに,厚紙の縁をつけたものである.ボードの上を一枚の透明なカバー・シートが覆っていて,その上端がボードに固定されている.このカバー・シートは,固定されている部分を除いて,ボードから離れている.この小さな装置でもっとも興味深いのは,このカバー・シートの部分である.このカバー・シートは二枚のシートで構成され,シートは二カ所の末端部分を除くと,互いに離すことができる.上のシートは透明なセルロイドである.下のシートは半透明の薄いパラフィン紙である.この装置を使用しない時にはパラフィン紙の下の面は,ワックス・ボードの上の表面に軽く粘着している.2-13) ここから,マジック・メモについてわかることは,大きく分けて,ワックス・ボードとカバー・シートという二つの部分から,この装置が構成されているということである.そして,カバー・シートは,透明なセルロイドの層と半透明の薄いパラフィン紙から構成されているので,全体としては,三層構造の装置ということになる.フロイトは,次に,この装置を使用するプロセスを詳細に述べている. このマジック・メモを使う際には,ボードを覆ったカバー・シートのセルロイドのシートの部分にメモを書く.そのためには鉛筆もチョークも不要である.受け入れ表面の上になにか物質を沈着させて記録を残すのではないからである.マジック・メモは,古代において粘土板や鑞盤に記録したのと同じ方式を採用しているのであり,尖筆のようなもので表面を引っ掻くと,表面がへこみ,これが「記録」となるのである.マジック・メモではこの引っ掻く動作は直接行われるのではなく,ボードを覆った二枚のシートを介して行われる