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コントローラ

光には触れることができない.そして,私たちは触れることができないものを操作するという感覚を,今まで経験してこなかった.いずれは経験することになるのかもしれないが,それには段階が必要なのではないか.まずは,光の画面に,コントローラという物質を通して触ること.これが,新たな人間の感覚のために必要なのだ.宮本の言う「何か物理的なもの」は,このことを端的に示している.しかし,ここで重要なのは,コントローラを作っていくためには,人間の手に合うことはもちろんのこと,光の軽やかさに対応できるような物質が必要なのではないか.

よく知っているようで,触れたことがない光.光に触れたら,どのような感触がするのであろうか,光に触れるためには,どのような形状が必要なのであろうか.そんなことを考えることがおかしいのかもしれない.今,私たちは,プラスチックでできたコントローラを持って,ゲームを楽しんでプレイしている.この事実から,光に触れるためのコントローラにおける物質性を考えたらどうだろうか.

映像による「未生」の感覚

映像による「未生」の感覚を考えることが,
これからの映像を考えるときに必要だと思う.
これまでのことではなく,これからのこと.
しかし,それは,考えるだけではだめで,
映像自体で示さないとならない.

だが,考えることが映像の未生の感覚に貢献できる方法もまた,
同時に,考える必要がある.
文字で書くことによる「わかる」ということ.
映像の未生の感覚を文字の流れで「わかる」流れをつくること.

重さのない映像の「軽やかさ」とプラスチックの「ない」という感触のテクスチャーの組み合わせ

その遍在性ゆえに「ない」という感触をもったテクスチャーとしてのプラスチック.それゆえに,重さのない光の世界にも,fit するマテリアルとして私たちのもとにある.プラスチックを掴む.今までになかった,実質を感じさせないマテリアルを掴みながら,重さのない光の世界を探求していく.そこには,「掴む」というプリミティブな行為が必要であった.

新たな世界を探求するための杖として機能してきたプラスチック.
光の世界にある種の物質性を持ち込むために必要なマテリアルとして機能してきたプラスチック.
光の世界の変幻自由さに対応できる形態変化の自由さをもったマテリアルとしてのプラスチック.

重さのない映像の「軽やかさ」とプラスチックの「ない」という感触のテクスチャーの組み合わせ.

プラスチックからはじまり,次はどうか.
何ももたずに重さないのない映像の世界を探求する.
プラスチックは得ることができなかった自然の滑らかさをもつガラスに触れながら,光の世界を探求していく.握るよりもより洗練された行為,ジェスチャーが可能になる.

オレンジの色だけが存在するように作られた表面

イメージ
自分が変なことに執着していたことを知っていたのだと思う.同時期にあった変な出来事といえば,図画工作の授業で画用紙をオレンジ一色で塗りつぶしたことがある.好きな絵を描けという課題で,当時はオレンジ色が異常に好きだったこともあってのことだと思うが,画用紙の表面の凹凸が激しく,クレバスで描いても紙のテクスチャーが浮き立ってしまうのがいやで,クレパスがなくなるまでべたべたに塗り重ねたのを覚えている.後に,実家の引っ越しの際にその絵が出てきてたまげたのだが.(pp.246-247)
— デザインの輪郭 深澤直人(2005)

この深澤さんの子供の頃の行為.
凹凸による紙のテクスチャーを,色で塗りつぶしてしまう.
色によってテクスチャーを無くしてしまう.
紙というモノのテクスチャーを消滅させる色.
オレンジのクレパスでべたべたに塗り重ねられた画用紙に触れたとき,
私たちには色に触れているのか,クレパスのテクスチャーに触れているのか,
それとも,振りたくったクレパスを支持している紙のテクスチャーに触れているのか.
ここには色を支えているモノが存在している.
でも,紙のテクスチャーは,クレパスによって塗り潰された.
クレパスのテクスチャー.紙に塗り重ねられたクレパスのテクスチャー.
オレンジという色を求めてつくり出されたテクスチャー.
意識的には,テクスチャーは存在しない.オレンジの色だけが存在するように作られた表面(LAMY の noto に通じるような表面)
深澤さんとプラスチックを結ぶことができるエピソードかもしれない.

日々の映像体験の中で蓄積されていく感覚を掬うこと

具体的に,なめらかな物質と軽やかな映像を結びつけること.
身体のつながりを創造すること.
視覚と触覚.映像への触覚の介入.
プロダクトデザイナーの言葉と映像とを結びつける.
深澤直人と吉岡徳仁.
感覚へのアプローチ.感覚をデザインする.
モノではなく,感覚をデザインしていく.
映像メディアのコンテクストを決定するのは何か.
感覚を信じることしかないのではないか?
信じることの強さを身につけること.
その訓練のためのテキストを書くこと.
日々の映像体験の中で蓄積されていく感覚を掬うこと.
暗い闇の向こうの合成されたような青い空があることの強烈さ.
実際に合成されているのだろうと思う.
この強烈さは,僕たちの身体の中を確実変えていっている.
合成じゃん,ではなく,それが強く印象に残ることが重要.
あたかもそころあるかのようなロボットではなく,チープな合成がもつ感覚.
僕たちは,自分たちの中で,ハリウッド映画のような合成を作りあげているのではない.
そんな時間は,身体に与えられていない.
もっと,チープで粗雑な合成を,瞬時に,大量に作り出して,
感覚のつながりをああでもないこうでもないと作り出しながら,映像に向かっているのではないか.
映像から,大量に生じる感覚のつながりの澱を自分の身体に抱えながら世界を体験していくこと.
どこから掬っていったらよいのだろうか.

映像の軽やかさを,その生得性と考えてみること

映像の軽やかさを,その生得性と考えてみること.
物質性のなさから,私たちの身体が得ること.
新しい世界.物質性がないということから生じる新たな感覚.

新しいとともに古来の感覚.
そよ風に手を当てる,そのときの感覚.
アニミズムに通じる感覚を,映像に覚えているとしたら.
新たな神話を作り出すこと.
物語るのではつながりを作り出すこと.
映像の軽やかさから,なめらかな物質の類似性を感じること.
アナロジー.アナロジーの連鎖.アレゴリー.
どこまでもつなげていくこと.
それをテキストにしていくこと.
テキストも軽やかに.

行為も軽やかに.
ただそれだけの行為.
ヴィリリオに批判されるような,ただそれだけの行為.
ただそれだけの行為を擁護すること.
ただそれだけの行為と,映像との組み合わせによって,
新たな感覚が生じていると考えること.

光の軽やかさとなめらかな物質としてのプラスチックをつなげること

さて問題は,この光の固まりの出現と消滅の「軽やかさ」にひそんでいる,と私はにらんでいた.「インベーダー」と名づけられたその光の固まりは,真っ黒な空間から,とつじょとして出現する.それがどこから来るのかは,まったくわからない.しかも,つぎからつぎへとあらわれてくるのである.全身が光でできているだけあって,その「侵入者」には,物質がしめす特有な抵抗感のようなものがまるで感じられない「侵入者」たちは,存在の軽さを楽しむかのようにして,ふわっと出現して,ひらひらと飛行し,そしてまたふっとかき消すように消えていってしまうのだ.(pp.20-21)
カプセルやボールが介在することで,子どもはその感覚からスマートな分離ができるようになるのだ.プラスチックの表面の乾燥してつるつるしている感触が,その分離感を強めている.しかも,子どもは「対象a」から薄い膜ひとつ隔てて分離されていながら,いまやそれを手に持ったリュックにつめて,持ち運びできるようになったのである.子どもはカプセルやボールの存在によって,母体との接触の記憶につながりをもつあのやっかいな境界物との間に,こうしてはなれもせず近づきもしない,まさに適正な距離を見いだすことができたわけだ.(pp.97-98)
中沢新一『ポケットの中の野生』
光の軽やかさとなめらかな物質としてのプラスチックをつなげること.光という「インベーダー」と,それを囲む,操作する乾燥してつるつるした感触をもつプラスチック.この関係を,もっともっと,自由に,考えていくこと.
福嶋さんの「モノとして記号」の物質性を生じさせている「インベーダー(侵入者)」としての光.デジタルによる空気感.ディスプレイの光の空気感.光に多くのものを負わせすぎなのかもしれないけど,僕たちが常に体験している光を見ることは,確実にヒトの感覚のつながりを変化させていると信じることからはじめる.強く信じることが,とても大切に思えている.そして,光とプラスチックやガラスといったなめらかな物質との関係とを考える.光の軽やかさに適正な距離を与えてくれる物質としてのガラスとプラスチック.現状の認識にすぎないかもしれないけれど.ここから考えることをはじめること.信じることをはじめること.

身体の構成の強さと映像技術の強さの間

それは私たちの知覚に浸透し,知覚を拡張し,分散させ,視覚・聴覚の構成そのものに作用しうる.映像は,多くの場合,何かを伝達し,あるいは物語るという次元で受けとられて消費されるが,同時に映像は,視覚・聴覚,そしてそれらを通じて他の知覚にまで作用し,知覚の構成を決定し変化させる.そのようにして映像は有機的な身体の中に浸透し,別の身体を構成しうる.おそらく機械による映像を経験して一世紀を経た人間の身体は,すでに別のものになっている.(p.197)宇野邦一『映像身体論』
再構成された身体のほうへ映像への触覚の介入:映像へ介入することができる身体の構成の変化.自動的に生成される映像.動く映像.見る,聞く,動く.そこに,触れるはなかった.現在,触れるという感覚.直接操作.技術の進歩.身体の変容.視覚と聴覚によって,触覚は映像に介入できるように再構成された.身体の構成の強さと映像技術の強さの間.

Looking 'Presence in absence' / Touching 'Presence'.

I look Apparent movement on the electric display and move the mouse cursor with holding the plastic mouse or touching the smooth track pad. Looking 'Presence in absence' / Touching 'Presence'.

Presence in Absence

Presence in absence is a pervasive feature of our perceptual lives.
from Action in Perception by Alva Noe.
仮現運動というヒトの生得的性質. ヴァーチャルを積極的に構成すること. カーソルが,ヒトの行為に従って,ディスプレイ上を移動する. 突然,カーソルの形が変わる. 仮現運動でもあるが,少し違う感覚.
<仮現運動>は,同じ空間内で対象物の位置の違う視覚的な位置情報の差分を提示されたときに生まれる対象物の「動き」という表象であり,その動きの経路は明らかにその空間内に生まれるのである.それに対して,<ワープ>移動は,移動の経路が別の世界にあると感じる点が大きく違うのである. 佐藤雅彦「いまだ発現の機会が与えられていない生得性:人間にとっての新しい映像表現を求めて」 in InterCommunication No.62, Autumn 2007.
この感覚を表すこと. メディアの「新しさ」を,ヒトの感覚との関係で示すこと.

電子的視覚表示装置が放つ明るすぎない光

はじめに 私たちを取り巻いている、電子的視覚表示装置は、「遠くを見る」という意味をもつテレビ、「警告する」という意味をもつモニター、「包みを解く」という意味のディスプレイなどと、その用途によって様々な名前で呼ばれているが、この装置が示している光の像の意味は、真剣に考察されたことがなかったのではないだろうか。それは、電子的視覚表示装置を、劣った映画装置だと見なしたり、「遠くを見る」という機能のみを取り上げてきたりしたことが大きな原因であったと思われる。しかし、電子的視覚表示装置は、コンピュータをはじめとする、様々な電子機器と結びつくことで、従来の考察では説明することができない意味を持ちはじめている。よって、本論考の目的は、電子的視覚表示装置が、自ら光を放つことに着目し、その性質を「鏡」というメタファーを軸に考察することで、この装置が持つ従来の視覚表示装置とは異なる光に関する原理を示すことである。
1.「ヴァーチャル・ウィンドウ」による「鏡」の隠蔽  アン・フリードバーグは、その著書『ヴァーチャル・ウィンドウ』において、遠近法が絵画を「ヴァーチャル・ウィンドウ」にしたとする。ここで言われている「ヴァーチャル・ウィンドウ」とはひとつの変換を示すメタファーであって、それは3次元のものを2次元という平面に変換する装置として機能するものである。そして、フリードバーグはこの「ヴァーチャル・ウィンドウ」が、アルベルティの遠近法に始まり、写真、映画を経て、コンピュータ・ディスプレイに展開する「マルチ・ウィンドウ」へと繋がっているとしている1。「ヴァーチャル・ウィンドウ」という概念を軸とするフリードバーグの論考は、私たちの生活のなかに、とても自然に入り込んできた「複数の窓[ウィンドウズ]」と呼ばれる、コンピュータの環境を視覚の歴史的な流れに位置づけることに成功している。

しかし、フリードバーグは、その一貫性を保つために、一連の視覚表示装置を説明する際、「鏡」というもうひとつの3次元から2次元へ変換する機能を示すメタファーを除いている。彼女は、絵画におけるアルベルティの「窓」とブルネレスキの「鏡」とを比較を行い、そして、ラカンをはじめとしたスクリーンを「鏡」とみなす映画理論への言及を行う2。その中で、「窓」は「直接性を生み出すもの、真実を告げる、媒介されないヴィジョン」であり、「鏡」は「…

見るものと見るためにしなければならないものの反映

Picture making, like experience itself, is an activity. It is at once an activity of careful looking to the world, and an activity of reflection on what you see and what you have to do to see. (p.179)
from Action in Perception by Alva Noe

見るものと見るためにしなければならないものの反映.
インタフェースがデザインしなければならないこと.

だから“映像”という言葉には,二つの意味がある

だから“映像”という言葉には,二つの意味がある.表示的には映画・写真・テレビを指し,判示的にはそれら諸媒体における物と意識の像的関係にほかならない.(p.11) 岡田晋(1981)『映像学・序説:写真・映画・テレビ・眼にみえるもの』


映像”という言葉には,二つの意味がある.表示的には映画・写真・テレビ・ビデオゲーム・ヒューマンインタフェースを指し,判示的にはそれら諸媒体における光と身体の行為的関係にほかならない.

GUI に生じる、緩やかではあるが途切れることのないイメージの相互関係

GUI に生じる、緩やかではあるが途切れることのないイメージの相互関係:カーソル/指標記号/指示詞(14697文字)

1.はじめに  コンピュータ以後のイメージを考えるとき、その操作可能性の向上は自明なものである。私たちは、コンピュータに向かいながら、それまでは「見る」ことしかできなかったイメージを「操作」している。それは、イメージが痕跡から離れた結果、イメージ自体を、リアルタイムで直接操作できることが可能になったからである。以上のことを、私は前の論文で論じた1。本論文では、操作可能性を拡げたイメージと、私たちとの関係を考えてみたい。そこで参照したいのが、私たちが常日頃接しているコンピュータのディスプレイに展開されるグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)の原型を作ったアラン・ケイが、GUI が目指すものとして掲げたスローガン「Doing with Images makes Symbols」である2。ケイは、イメージを操作することで、言葉が持つようなシンボル体系を作り上げようとした。それは、コンピュータ・ディスプレイのなかに、イメージをその構成要素とした操作可能な環境を作り上げることを意味した。そして、この試みはデスクトップ・メタファーを GUI に採用することにより大きな成功を収めた。イメージに「メタファー」という言語的要素を適用することによって、ディスプレイ上のイメージは理解しやすく、操作しやすいものになった。イメージは言語的要素を自らに取り込むことによって、ある環境を再現、構築するだけでなく、その環境への私たちの理解を助け、それを私たちが操作するための手段となっているのではないだろうか。そのことを、ケイのスローガンから生み出された GUI のディスプレイ上に展開するイメージから考察したい。そのために、GUI 環境で、もっとも私たちが操作している「カーソル」というイメージを取り上げ、この対象を、思考は記号の流れだと考えたパースの記号論における指標記号や、そこから派生する指示詞という言語的要素を用いて考えていきたい。

2.カーソル GUI の登場は、コンピュータにとってどのような意味をもっていたのであろうか。ボルターとグロラマは「GUI の発明以前のコンピュータは、テレビや視覚的リアリズムへの文化の動きとは関係あるように見えなかった。エンゲルバートやケイらに…

1960年代に起きた「描く」行為の変容と電気の光

1960年代に起きた「描く」行為の変容と電気の光:アイヴァン・サザーランドとダン・フレヴィンを手がかりに (19708字)

1.はじめに 1963年、アイヴァン・サザーランドは、最初のコンピュータ・グラフィック・システムと呼ばれることになる、スケッチパッドを開発する。以前、私は、スケッチパッドが、コンピュータの高速の演算能力と、CRT ディスプレイや、ライトペンといった電気の光を直接操作する装置を用いて、光の点を選択することで「描く」という行為を行える装置だということを示した1。しかし、なぜ、光の点を選択することが「描く」という行為になり、私たちが、そのことを受け入れてしまうかについては考察していなかった。「描く」とは、線を「引く」ことや絵の具を「塗る」という身振りであったはずである。サザーランドが、スケッチパッドを開発した年、ダン・フレヴィンは蛍光灯を単独で用いた作品《1963年5月25日の対角線》を発表する。そこにあるのは、壁に斜めに設置された8フィート(244センチ)の黄色い蛍光灯だけなのだが、蛍光灯から放たれる光が、部屋の壁や天井、床を絵画の表面にしてしまう2。この工業的に大量生産された蛍光灯を用いて制作される作品によって、フレヴィンはミニマリズムを代表する作家として知られるようになる。しかし、なぜ、フレヴィンは、蛍光灯という電気の光を放つ照明装置を使って、自らの作品を描こうとしたのであろうか。そして、この問いは、スケッチパッドが示す問題と重なるものがあるのではないだろうか。それは、電気の光が私たちの「描く」という行為に影響を与えており、その影響を踏まえた上で、改めて「描く」という行為が考えられ、具体化されていったのが、1960年代なのではないかということである。この問題を明らかにするために、本論考は、工学と美術と領域は異なっているが、ともに1963年に発表されたアイヴァン・サザーランドのスケッチパッドと、ダン・フレヴィンの蛍光灯を用いた作品を並べて考察することで、電気の光が「描く」という行為に与えた影響を検証していく。

 そのために、まずは、1960年代までに、電気の光がどのような可能性を示し、その影響によって、私たちの想像力がどのように刺激されていたのかを考えなくてはならない。そこで、19世紀後半に、電気の光が、新しい光として、私たちの前に登場してきた際…